いざ、さらば。

普段着が着物で骨董品の類が好きなブックジャンキー。最近は消しゴムはんこでブックカバーだの葉書だの作ってる。Twitterもやってます。→https://twitter.com/hagimori_kei
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ニュークスというアイデンティティ

ニュークスというアイデンティティ

前記事で個人的にはフェミニズムよりジェンダーフリーを感じた、と書いたけれどそれは多分、ニュークスについて感じることが多かったからだと思います。「抑圧と搾取の最先端にいる女性性のみを求められる女性たちを、女性性を捨てることを強制された女性が解放する」物語の大筋はもう完全にフェミニズムそのものです。

ニュークスというのは最初、無数にいるウォーボーイのうちの一人です。彼らには個がなくイモータン・ジョーを神と崇めジョーのために死ぬことを幸福とする青年の集団。北欧ヴァイキングのヴァルハラに似通った思想で「死ねば英雄たちに迎えられる」と口にし、実際それだけを精神の要にして死地へ突っ込んで行きます。冒頭のニュークスはマックスからの輸血を受けるほど疲弊しているにも関わらず、フュリオサ追走のためにマックスを車に括り付けてまで戦地へ駆けて行く。

ウォーボーイはある種、幸福な烏合の衆だ。
自らの全てをイモータン・ジョーに任せ、思考することなく洗脳された小さな価値観と集団のためにある宗教のなかで、あまりにも安く使い捨てられる。そして力尽きれば死人に口なしで「彼は英雄に迎えられた」。自己決定の概念がない。外界を知らなければ幸福の極みです。

しかしニュークスは死して迎えられる英雄の扉を叩く前に、神と崇めたジョーの目の前での失敗で外界への扉を開いた。
「英雄への扉が3回も開かれていたのに全部駄目にしちまった…」
凹んで泣きながら蹲るニュークスにケイパブルがかけた言葉は
「それはまだ英雄に迎えられる時ではなかったのよ」
彼女はニュークスを否定しなかった。その場の感情を受け止め、余計なアドバイスもせず話を聞き、相手の心配をする。それは無自覚のうちに人間性を否定され「個」を奪われ続けたニュークスにはとても凄いことだった。

ニュークスを演じたニコラス・ホルトは「ニュークスは荒れた世界で育ったので、ケイパブルが自分の話を聞いてくれて、心配してくれるなんて、理解できないくらい凄いことだった。彼はある意味、子犬みたいなんだよ。その瞬間から、ケイパブルだけが彼の生きがいになる。彼女は、ニュークスの中に人生を変えることができる可能性を見いだし、彼が知らなかったことへ目を向けさせてくれた人なんだ」と語った。
http://timewarp.jp/movie/2015/05/27/71147/

ここからニュークスは「集合体」だった自己と決別し、「個の集団」であるフュリオサたちの仲間に加わるのだ。英雄であるためにはまず個を持った人間でなければならない。ニュークスを人間にした(人間としての自覚を持たせた)のはケイパブルという女性性以外を剥奪されていた人間だったのである。

(物凄く個人的な解釈では赤毛は魔女という迷信から「ケイパブルがニュークスを人間にする魔法をかけた」という表現だと大分ロマンティックで内容がマイルドになるなあと思いました。多分ニュークス的には魔法レベルに感動したんだとは思うけれど)

ウォーボーイたちは皆「俺を見ろ!」と言って死ぬ。それはあくまで「集合体の英雄(の一人)に加わってやるから、よく見とけ!」の意だったが、ニュークスが最期に言ったそれは集合体に依らない、救済や大義を求めない「個」としての表明だった。

人間の尊厳を取り戻した彼の死はとても痛く、重い。
でもだからこそ、以前の「ウォーボーイの死」とは違うことを実感できてしまうのだ。

(続く)
女戦士フュリオサと捨てなければならなかったもの

女戦士フュリオサと捨てなければならなかったもの

私はネタバレ大丈夫な人間なので、気が向けば鑑賞前に他者の感想や分析も読みます。マッドマックスについて割とよく見たのは「神話性」と「フェミニズム」。鑑賞後これらについてよくよく考えていますが、私的には神話性はかなりアリです。でもフェミニズムについてはちょっとピンとこない。

私は直球なフェミニズムよりも、ウォーボーイや子産み女たち、そしてフュリオサという虐げられてきた者たちの人間的な闘争「ジェンダーフリー」として感じました。(フェミニズムとジェンダーフリーの違いについては各自検索をどうぞ。)

イモータン・ジョーの統治するシタデルでは、一人の人間にひとつの役割しか与えられていない。ジョーの妻であるから愛情とか性欲とかのために追うのかと思いきや全くもって文字通りの「子産み女」として扱われる5人の女性たち、母乳を採るために太らされ搾乳機にかけられる多数の女性、そして戦闘のために生産されるウォーボーイたち。これらの一度与えられた男性性・女性性の極地ともいえる役割はおそらく一生覆ることなく、それ以外の人生は許されていない。

人間性の完全なる否定(自由意志の否定)が、蟻等の真社会性生物の世界を形作るわけです。そして冒頭のマックスが生ける血液袋としてこの社会に「管理」されるための背中のタトゥーから、その社会概念はかなり完璧に(少なくともウォーボーイたちには)浸透していた。

さて主人公のマックスだが、彼は基本的に人と関わることを好ましく思っていない。主人公でありながら物語を動かす位置には居ない人物である。実質的に物語を動かしているのは女戦士フュリオサだ。「怒りのデス・ロード」を直走るのは彼女であり、一番この世界に対して憤怒しているのも彼女である。マックスはそれに寄り添って戦うし、「子産み女」たちは最初はもたついたりしたものの、それぞれの方法で二人を助けたり戦ったりする。

当たり前だけれど、このジョーの妻たち5人にも性格や個性が見られる。ジョーの子を妊娠している5人のリーダー的存在であるスプレンディド、たまに鋭いことを言い鉄騎の女たちと絆を深めたプラチナブロンドのアビー・リー、一番若くおそらく外界を知らないために途中でシタデルへ戻ろうともした黒髪のフラジール、凹んでいたニュークスを慰めた美しい赤毛のケイパブル、小柄で活動的であり5人の中で最初に銃を手に取った黒い短髪のトースト。

何の根拠もないのだが、私はこの5人は「ひとりの女性がもつ女性性」の記号でありフュリオサが女戦士になるにあたって、捨てなければならなかったものたちではないかと感じた。(全体的にはその「女性性」の解放=フェミニズム、の意ではないかなとも)

男性性・女性性の極地ともいえる役割(階級?)を強制される社会において、女戦士のフュリオサはその境界に立つ者ともいえます。彼女の左腕が肘下から無く義手をつけているのも、「失ったもの」の記号に思えてくるくらいには。

フュリオサの腕がいつなくなったのか、というのは作中描写されない。先天的にないのか緑の地以前以後か全く語られない。繰り返しになるが、フュリオサは緑の地という外界から攫われてシタデルに来た人である。攫われた理由としては多分「子産み女にするため」、そしてそうならなかった理由も同じく語られないが、おそらく「妊娠出来ないあるいはしにくい体」であるから。これは憶測なので実際はわからないが、スプレンディドの遺体から(死産ではあるが)赤ん坊をとりあげる医者らしき男がいたことから検査くらいはしただろう。その前にマックスをO型血液袋にするくらいだし、医療関係はそれなりだったのでは。

フュリオサを演じたシャーリーズ・セロンが、「支配者は過去に彼女を深く傷つけたから、彼女は支配者の大事なものを奪った。彼から大事なものを奪われたから」と語る場面がある。http://news.aol.jp/2015/06/16/furiosa/

これをフュリオサの人格・人間性・女性性を傷つけたから、と変換することは偏った思考だろうか?

そしてそれらを傷つけられ、捨てることを強制された彼女は「女性性」のみを要求される(人格・人間性を捨てることを強制される)女性を解放するために動く。

(続く)

追記:原題の「Fury Road」のFuryの意味は激怒とか憤怒だけどギリシャ神話の復讐の女神に由来しているらしいですね。まさにフュリオサ。

追記2:自分で書いたことだけどもやもやしたので。フュリオサが子産み女にならなかった理由は別に身体的な理由に限らず、抵抗が激しすぎて子産み女として御せそうにないから他に活かそうとかでもいいです。問題なのは「女性として」女性機能(という言葉も問題あるけどこのシタデルでは妊娠出産だけが女の役割として強制されているので)の拒否が許されていない社会、女として役に立てないなら(男に気に入られる女でいられないなら)男になれと言われる社会だと思います。徹底して人格と自己決定権を剥奪していく社会。フュリオサはそこにNOと叩き付けて自分を抑圧してきたものに復讐するから、痛快で美しいわけです。

フュリオサの凄さはそれだけではなくて、復讐の対象を「男性全て」ではなく「自分を抑圧したもの」と限定して実行したところ。だから自分に協力するマックスやニュークスは受け入れた。単純な記号に惑わされて主語を大きくすることなく的を絞って一撃必殺。そうした精神にマックスより上であるフュリオサの射撃の腕も反映されている気がします。
狂人マックスとイモータン・ジョーの背中

狂人マックスとイモータン・ジョーの背中

「マッドマックス 怒りのデス・ロード」について感想を書こうと思います。

まず私は前三作「マッドマックス」「マッドマックス2」「マッドマックス サンダードーム」については全く知りませんでした。ただなんとなく前評判というか、おじさまな方々が楽しみにしてらっしゃるなーくらいのもんです。

あ、あと日本語吹き替えがひっどいとか、ジェンダー問題がどうとか神話的ヒャッハーであるとかそういう方向。

で、見てみた。
確かに何も考えずに見ても面白いしアクション派手だしヒャッハーだし。でも「ここに居たら人間でいられない!→逃げよう!→逃げるよりも元の場所に戻って相手をぶっ潰そう!」という行って帰ってくる話の単純さの割に相当に作り込まれて緻密で、人間的なものに訴える力がある。緻密すぎて何から語ればよいやら。

まず鑑賞後に感じたのは、登場人物の背景についてほぼ描写が皆無という点においてかなり(マックスの視点だから?)男性的な語り口というか、以前読んだジョジョとベルセルクの比較みたいなものが頭を駆け巡りました。(人物の心情はともかく出来事を淡々と描くジョジョと、登場人物の心情境遇含めて全てを語る形式のベルセルク)

例えば「子産み女」たち脱出の主犯(?)である隻腕の女戦士フュリオサは、緑の地から母とともに攫われて現在に至るというが何がどうなって女戦士、しかもトレーラーを任されるほどの地位についたのかが全く語られない。
同じくウォーボーイとして生きてきたのにいつの間にか仲間に加わっていたニュークスについても、誰から生まれどのように生きてきたのか(皆似たような顔つきのウォーボーイたちから察するに、機械的に「生産」された存在であるのは間違いないだろうが)その過程は作中示されない。
別にこれらは不満でもなければ、作中には不要な情報で蛇足であり、もしかしたら監督のインタビューや設定なんかにはあるのかも知れない。しかしこの「出来事中心」の構成は、さりげなく足元の土の下奥深くにある水脈のように、大事なことは観客の解釈にのみ宿ることを強く意識させられる。

(続く)
性別不詳

性別不詳

渋い縞に曾祖父のへこ帯合わせたら、ぱっと見男か女かわからんくなった。

上野動物園行くどー。
ぱっふん

ぱっふん

放置していた作りかけ白熊ぬいぐるみを実家から持ってきて、原稿の合間に作成なう。

肉球アップリケに癒される。
ママの味ちゃうわ

ママの味ちゃうわ

神々しく降り立った風なミルキーさん。(中身紙粘土)

左が大玉で右が普通サイズのはずなんだけど、まあ見たとおり右は粘土でかかったよね。すまんね。
切り紙

切り紙

チョコレート手紙に同封したかったけど別の入れたからいっかーというやつら。

ちまちま切ってる。
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